正月なんて大キライ

母の正月嫌いは筋金入りだった。

私と妹が実家を出ると、母は年末年始の一切の支度を放棄した。
父の仕事でシンガポールに住むようになってからはいよいよ拍車がかかり、好きなように正月を過ごしていたようだ。

もしかすると、辛うじてお雑煮は作っていたのかもしれない。
年越し蕎麦を食べていたかどうかは微妙だ。
クリスマスには何もしていないだろう。

父と2人の生活では、おせちは一切食卓に上らなかったのではないだろうか。
キッチンの棚にしまいこまれたお重は漆塗りが剥がれてしまっていた。

大掃除はいやいややっていたような気もする。
もっとも、家はいつもキリッと整っていたから、あえて年末にまとめて掃除する必要もなかったのかもしれないが。

「あれはどこかな」「ここはできたぞ」なんて、能天気で間の悪い発言を次々に繰り出す父を鬱陶しがる母の顔が目に浮かぶ。

ドライな性格の母。
私が結婚すると「正月になんて帰ってくるな」と言い放った。


スーパーで働いていた母にとって、年末は戦場だったようだ。
きっと、うっすらトラウマになったのだろう。

掃除も、食事の支度も、誰も積極的に手伝わず、母が1人でくるくる回っていた。

大掃除、おせち、初詣…次々と流れるCMが年末年始の準備を急かす。

仕事をしながら年末年始にまともに向き合うと、命が縮んでしまう。
今ならわかる。あれは半分趣味のものだ。

いつもぐずぐずと体調が悪かった母のことだから、12月の急な寒さが年々体に堪えるようになってきたのかもしれない。

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私が実家にいた頃は、家族4人と猫1匹で静かな正月を迎えていた。
子どもの私にとってはそれなりに楽しい日だった。

お年玉は少なかったけれど「全部使っていいよ」と言われた。
迷いに迷って買ったのは「りぼん特大号」。
もう少し年齢が上がると、初売りのダイクマでスニーカーを買うのが楽しみだった。

定番のおせちは誰も積極的には食べなかったし、用意する母もさほど力を入れていなかった。

お重の2段目はまるごとハムとサラダ。
私の楽しみは緑が鮮やかな富士ようかんと栗きんとんだ。

年末にストーブの上でごまめを炒っていた記憶があるので、若い頃の母はそれなりにがんばろうとしていたのかもしれない。

VHSテープをどっさり買い込み、テレビガイドに蛍光ペンで印を付け、どの番組をオンタイムで視てどれを録画するか、皆で作戦を練った。

元旦の分厚い朝刊を端から端まで読んで、待ちきれずに何度もポストを覗きに行く。
ぱらぱらと届いた年賀状を繰り返し眺めて、返事を書いて。
父と母には年賀状のやりとりをする習慣はなかったので、くじ付きのハガキが少なくてさみしかった。

初詣には行かない家だった。
正月は、どこに出かけるでもなく、誰か訪ねてくるでもない、家で好き放題のんびりする日。

駅伝が始まると父がテレビの前を陣取り、お酒を飲みながら延々と視ていた。
「走っている人を見て何がおもしろいんだろう?」と思う私の気持ちは今も変わらない。

レトロなイラストの羽子板で羽根突きをし、こまを回す。
思い返せば昭和の正しい正月遊びもそれなりに経験している。

すごろくや福笑いも毎年あったように思うが、あれは何かの付録だったのか。
百人一首は坊主めくりにしか使わなかった。

青いビニール袋で父が作ってくれた龍の凧の3メートルほどもある長い尾が、正月の冷たい風になびく。

高校生になると、私も妹も、彼氏や友達とせっせとどこかに出かけるようになり、我が家の正月はいよいよ薄まっていった。

昔は母もそれなりに正月に付き合ってくれていたように思う。

「年末年始はこういうもの」という思い込みでがんばっていたのか、若い頃はそれなりに好きだったのか、今となってはもうわからない。

1月1日は父の誕生日、4日は母の誕生日。

おせち料理

さて、私はといえば。

義実家での泣きそうに窮屈な正月から解放されてから随分経ち、今は「いいお酒に合わせるおいしいおつまみを作る日」「いつもより凝ったおかずを作る日」として正月を楽しんでいる。

近年は、わくわくして待つ父へのサービスで実家に集合するようになり、それはそれで私の戦場だが、そのうちこだわりもなくなってきて手抜きを始めることだろう。

かつては、12月になるとひと月の間まるまる体調が悪かった。
今でも師走の声を聞くと気が張ってそわそわし始める。

それでも、ようやく年末年始と和解できたように思う。

今年もよくがんばりました。
来年も良い年でありますように。

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