さよなら、ミモザ。

父が枯れたミモザに大きなやかんで水をやり続けている。

わずかに残った葉は全て茶色に変わってしまった。幹の内側まで乾き切ってしまったのだろう。

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実家の「北のベランダ」には大きな鉢植えのミモザがある。背の高さほどの大きさで、マンションで育てるにはぎりぎりのサイズではないだろうか。花が好きだった母が世話をしていた。

夏の暑い日、ベッドで寝ていることが増えた母が言った。「水やりはやかん2杯分」。
集会場の給湯室にあるような大きなやかんの2杯分というと結構な水の量だ。

母の遺したメモ
ここに水の量のことも書いておいてくれれば…。

植物の世話に不慣れな父と私にとって、残されたミモザとの付き合いは一筋縄ではいかなかった。

春の終わりにはカイガラムシの洗礼を受けた。父はつぼみだと思ってのんきに見守っていたらしい。実家に行くたびに割りばしを持ってベランダに向かい、つまんでは捨てることを繰り返す。地味な戦いが2年近く続いた。

去年の夏の「酷暑」には参った。ミモザは無残に葉を落とし、さすがにもうダメかと思った。それでも何か思い切れず、ため息をつきながら短く枝を切り詰めた。

ところが、涼しい風が吹き始めると短く切った枝から新芽が噴き出してきたではないか。木ってこんなに強いのか。夏の切り詰めが結果的に強剪定になったようだ。

でたらめな剪定の繰り返しで樹形が崩れていたのも、これを機に少バランスよく形が整うかと期待した。

植物の水やりは父が担当している。

父の水やりセンスは抜群だ。几帳面な性格が存分に生かされている。室内の湿度を確認してから計量カップを使ってきっちり必要な量だけの水を注ぐ。理系らしい絶妙な調整でパキラもモンステラも生き生きとしている。

ところが、去年の梅雨の季節、父はパキラの1鉢を根腐れさせてしまう。ここから父のリズムが崩れていく。

私は知っていた。父の水やりは「やかん1杯分」だったのだ。それなのになんとなくそのまま任せておいた。そして梅雨の季節が再び訪れて、父は植物にやる水の量を一層抑えたのだった。

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春先のまだ空気の冷たい頃、北のベランダの窓を開けると突然黄色い「ぼんぼん」が目に入った。

無数の花はこちらに話しかけるようだ。植物の命の勢いに圧倒されるばかりだった。冬の疲れが吹き飛ぶような強烈なイエロー。ミモザが咲くと、春はすぐそこまでやってきている。

あの鮮やかなイエローが見られないのはさみしい。

植木鉢

問題は、次の植物をどうするか。また植えるか、もうおしまいにするか。

3年も経つと「母の遺したものは何としてでも守らなくては」という執着も薄れてくる。それよりも父が日々快適に過ごせることの方がよっぽど重要だ。私が実家に滞在するのは週に3日。新しい植物を連れてくるか、今も迷っている。

父は積極的に植物の世話をしているのではない。やむなく水をやり続けているだけで追肥や剪定は私の仕事。花瓶ですら水を足すだけで花を取り替えることはまずない。

それでも、一人で過ごす家の中に生きているものがあるのは良いことだ。写真の母の脇に花を欠かさず飾るのは、半分は父のため。父は新しい花に季節を感じ、楽しみにしている。

植物とうまくやっていけるかどうかは運と相性で決まる。日当たり、室温、手入れのリズムなど、そう簡単にベストの条件は揃わないし、テクニックも必要になってくるだろう。そもそも人間の都合で植物をコントロールしようと思うのが勝手な考えだ。

ダメでもともと。やっぱり何か持ち込んでみようかしら。

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